「あぁ〜! 水素の音ォ!」彼女は恍惚として言った。全ての終わりと、始まりを歓迎しながら。
「あぁ〜! 水素の音ォ!」彼女は恍惚として言った。全ての終わりと、始まりを歓迎しながら。
1. プロローグ
「水素の音、聞いてみたくない?」
彼女のその一言が全ての始まりだった。ただの始まりなんかじゃない。文字通り、世界の全ての始まりだ。正確に言えば、「世界の」の前に「次の」と付ける必要があるけれど。
彼女の唐突な言葉を聞いたときの私は、まさか彼女が世界の話をしているなんて欠片も思わなかった。なんなら、水素に火を付けて爆発させる実験のことを言っているのかとのんきに考えていた。だから私は「うん、聞いたことある。昔、学校の理科室で」なんて口にしようとして、続く彼女の言葉に頭を
彼女、なんて言ったと思う?
彼女の言葉はあまりに詩的すぎて、すぐに意味を解釈できなかった私は、彼女の真意を理解するまでに数呼吸見つめ合ってしまったのだけれど。ああいや、彼女の真意なんてものは未だに理解できていないからこれは言葉の綾だ。わかりやすくするための皮肉が効いたレトリック。ウィットだよウィット。この回想だって世界からしてみればたちの悪い冗談なわけで、ツッコミを入れるべき場所はここではないだろう。
そう、これは冗談だ。ことは既に終わってしまったのだ。この場所ではもはや、あのときの彼女の言葉は本質的な意味を持たない。それなのになぜ私が彼女の言葉を語るのかというと――語りたいのかというと、自己中心的な話で申し訳ないのだが、私はもう忘れたいのだ。忘れるとまでは行かなくても、この記憶を薄れさせたいのだ。こういったことを自分だけ覚えているというのはひどく居心地が悪い。まるで記憶に縛られているようで、元来自由を愛する身からすれば閉塞感のある狭い部屋に閉じ込められているような心持ちになってしまう。そういう部屋が好きな人はいるだろうけれど、私は少し苦手だ。
この感情を例えるならば、普段はお淑やかな隣人が、実は非常に攻撃的なスポーツが好きで、試合を観戦するときはとても紙面には起こせないような汚い言葉を発していると知ってしまったときのような気持ちと言えよう。ううん、これは少し違うだろうか。まあとにかく、こういったことは他人に共有したくなるものだろう。
あまり倫理的ではないが、もっと良い例えを思いついた。捨て猫がいたとして、その捨て猫の存在を自分だけしか知らなかったとする。その場合、全ての責任は捨て猫がいるという知識も持つ自分にのしかかる。もちろん悪いのは捨てた人だし、言ってしまえば大本の責任もその人にあるのだけれど、そういった
前向きな言い方をするならば、私は昔を捨ててこれからを歩み出したいのだ。このフレーズもまた皮肉が効いている。この文脈で気づけた人がいるならばとても聡い。そんな聡い人はきっと、ここまで出てきた昔という言葉の滑稽さを議論しようとするだろうし、このあたりは掘っていけば結構面白くて本質的な部分があると思う。とはいえ、それは少しずつわかっていく話だ。今すぐしなくてはならないようなものではない。そういうことだから、ここらで一旦話を戻そう。私は議論よりも
彼女はそのときこう言ったんだ。
水素の音、聞いてみたくない?
――世界が最初に聞いた水素の音を。
って。