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もひょもひょしたブログ

タイトルから察してあげてください

Twitterで1日のツイート数を減らす努力をしているのだけれど

ブログ SNS えせえっせー

きつい。一言でいうときつい。一言で言わないと、耐えようのないTwitterへの思いが、僕の心を際限なく蝕んでいくような心もちだ。Twitterでツイートをするという行為が、いかに僕の生活になじんでしまっていたのかがよくわかる。喉が渇くのと一緒で、ふと気が付くと、ついついツイートをしたくなっている。これは明らかに依存だ。重度の依存ではないと思うが、けれども依存してしまっていることは確かだ。そして、依存していることを自覚して、何とかしようとしている今だからこそ、Twitterがこれまで果たしていた役割がよくわかる。


僕はどうでも良いことを妄想するのが好きだ。あるいは、どうでも良いような文章を紡ぎ出すのが好きだ。自分でも理解に苦しむような文章を生み出せたときに湧いてくる、言いようのない気持ちが本当に好きだ。それは、何かを成し遂げたときの達成感に、少しの背徳的な風味が混じったものだ。甘くてほろ苦いチョコレートだ。

この文章も、そういった活動の一つで、僕のエゴが凝り固まったものだ。一回僕の心で製造されて、指先からとろけだしたそれを、電子の海で再度固まらせた、ギットギトのチョコレートだ。Twitterで、僕はそれらのエゴを発散できていた。時には人と対話しつつも、基本的には一人で淡々とツイートを重ねていた。誰かに見られることを意識した内容にはなっているものの、基本的には僕の心で湧いてきたあれやこれやを、ただただ垂れ流している感じだった。そしてそれが、「当たり前」として受け入れられていた。

考えてみてほしい。妄想やら、くだらないことやら、体験したことについてやら、その時の気持ちやらを、現実世界で周りの大勢にまき散らすとしよう。もちろんTwitterも現実ではあるが、この場合の現実世界は人と人とがダイレクトに触れ合う空間のことを意味するとして考える。手段としては「声を上げる」や「紙に書いてまき散らす」といったものが考えられる。これをされた側はどう思うだろうか。みんながみんな、バラバラのことを、口々にまき散らしているとしたら。隣の人に押し付けられた紙を手に取ってると、その場で思いついたであろうくだらないダジャレや、何かに対する愚痴なんかが書かれていたら。それらには様々な思惑が込められていたり込められていなかったりして、例えば自己顕示的な目的で行われたものがあったり、あるいは思想の普及のために行われたものがあったり、あるいはほとんど意味のないただの擬音であったりするわけだ。わけがわからないだろう。混沌としすぎていて、有名な逸話の聖徳太子の能力を持ってしてもすべてを把握することは難しいだろう。

Twitterは、そういったことを行えるツールだったのだと気付いた。いやもちろん、本来は自分の身の周りのできごとや思ったことなどを共有しつつ、他人との交流を楽しむツールだ。そういう趣旨のものだ。ん?本来の趣旨も結構混沌としているではないか。そもそも、SNSというサービス体系からして、ユーザーが増えれば混沌とすることはまあ運命なのだろう。Twitterに限らずあらゆるSNSは混沌としている気がするし、そんなものなのだ。きっと。


まとめてしまおう。Twitterを使えば、心に湧いてきたちいさな塊を、内にため込まずに済む。しかも時には、それにリアクションをしてくれる人がいて、彼らとのゆるいコミュニケーションを楽しめる。誰もがそれを行い、その混沌さを当たり前なこととしてそれぞれがほぼ無意識に受け入れているからこそ、Twitterは少しだけ心地が良い。要するに、ただそれだけのことだ。

しかしやりすぎは良くない。そう思って、自分の心の内を垂れ流すことを、自ら削ってみようとしたところ、なまじ少しは垂れ流せるように設定した分、苦しい。一番最初に、喉が渇くことをTwitterへの思いのたとえとして挙げたが、この苦しさも同様に考えられる。喉が渇いたときに甘いものを飲むと余計に喉が渇くのと、Twitterで少しツイートをしたときの思いは同じようなものなのだ。僕がもっと高尚な事を考えているのなら別だったのだろうが、多くは刹那的な「どうでも良さ」をもったものばかりだ。それらに優劣がないからこそ、どれかを発散したら最後、全部発散したくなってしまうのだ。うむむむ。

ところで、Twitterで心を垂れ流すのもそうだけれど、こうやって文章を書くのはとても楽しい。だからこそ、同じようなことを何度も何度も繰り返して、結局ここまで書いてしまっている。Twitterでできなかった分をここでやっている。元も子もないじゃん!


僕は、何かを主張したかったような気がするのだが、結局なんだったのかわからなくなってしまった。ほら、刹那的でしょ?おもむくままに1900文字も書いたら、もうそれで内側の「もやもや」や「ふわふわ」を発散できてしまうのだ。だから、もしもここまで何かを期待して読んでしまった人がいたら本当に申し訳がないのだけれど、この春の夜の「ひとりごと」は、次の一文で締めくくることにします。

おやすみなさい、良い夜を。