もひょもひょしたブログ

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「しゃべれる」はら抜き言葉か

こんにちは。

先日、「しゃべれる」という表現を使ったのですが、使う前にとても悩みました。

あれ、もしかして 「しゃべれる」ってら抜き言葉

と。まあいちいちそんなことで悩むなよ、と思われるかもしれませんが、その辺は趣味の問題です。文章媒体ばかり読んでいる身としては、ら抜き言葉というものにどうにも違和感がぬぐえないのです。例えば「食べれる」だとか「寝れる」だとか「見れる」といった表現が、なんだかむず痒く気持ち悪いのです。

 それで、「しゃべれる」が実はら抜き言葉なんじゃないかと思えてしまい、少し悩んでしまいました。読むときにはパッとわかるのですが、書いているときにはついついら抜き言葉を使ってしまうことがあるので、そのノリでら抜き言葉を使ってしまったんじゃないかと思ったのです。

結果から言えば「しゃべれる」はら抜き言葉じゃありませんでした

 まあ確かに「しゃべられる」って少し違和感がありますものね。ん?別に「しゃべられる」でも問題ない?

 ……チッチャイことは気にするな!それワカチコワカチコ!  いつの誰のネタでしたっけこれ。文明人には少し難しかったかもしれませんね。失礼しました。

「しゃべれる」はいったい何なのか

 ざっと調べたことなどをまとめていきましょう。

 まずはら抜き言葉の定義について。

「上一段・下一段・カ変活用の動詞に可能の意の助動詞「られる」が付いたものから「ら」が脱落した語。「見られる」「食べられる」「来られる」に対する「見れる」「食べれる」「来れる」など」(『広辞苑』)

 要するに、上一段・下一段・カ変活用の動詞で可能の意を表すときに、「ら」が抜けてしまったものの事ですね。なにも要していませんがまあこれ以上言いようがないので良いでしょう。

 そして、「しゃべる」はというと、ラ行五段活用の動詞でした。

 ほほう。では五段活用のルールに則って可能表現を作るとすると……「しゃべられる」だ!あれれ!おかしいな!

「しゃべれる」は「可能動詞」だった

 ここで、現代標準語におけるとあるルールが登場します。とある文法の国語辞典<ディクショナリー>です。すみません。これが言いたかっただけです。

 それは 『「五段活用動詞」を可能表現にするときは「下一段化」して「可能動詞」を作る』 というものです。

 なるほど、「しゃべる」から、可能を意味する別の動詞「しゃべれる」を作ってしまうんですね。確かこれ、中学校で習ったことの気がしますがすっかり忘れていました。    「しゃべれる」のような例として「釣れる・蹴れる・寝そべれる・つねれる」などがあるようです。「ググる」はおそらく五段活用で使われているのでこれに入りますね。可能表現は「ググれる」です。色々と知りたい人は「ラ行五段活用」とググってください。

 うーん、じゃあいずれ「ら抜き言葉」も可能動詞として一般的に認められるようになるのでしょうか。ら抜き言葉のメリットは確かに大きいですし。例えば受け身と可能を文脈なしで区別できるというのは大きなメリットですね。言いやすいというのもら抜き言葉のメリットでしょう。まあ、ら抜き言葉のメリットについてはおそらくググれば大量に出てくるので、ここで詳しく考察していく必要はないでしょう。

 さて、スッキリしました。これで今日はよく"寝られそう"です。

魔法の呪文

 ところで、英語における「can」のように、動詞を統一的に可能表現へと変化させる方法が日本語にもあります。それを使えば、ら抜きだとかうんちゃらだとか悩まなくても、可能表現を作ることができます。実際に、一つ前の文中で実践しました。そう、ご存じのとおり「することができる」という表現です。便利ですよね。文字数が少し多くなりますし、日本語として美しくない気がしますが、とっても便利です。だからどうということはないのですが、ら抜き言葉かどうかの判断に悩むときに意識して使えばストレスを軽減できるので、どうしてもというときは用法容量に注意して使っていきましょう。

僕なりの「ら抜き言葉」に対する解釈

 最後に「ら抜き言葉」に対する僕の見解を書いておきます。僕は文法自体まったくのド素人ですが、しかしこの世界はド素人に満ちているのです。その中の一人の意見や理解というのは、どこかで役に立つ可能性があると信じています(まあ単に自分の考えを整理しておきたいだけなのですが)。

 僕は、言葉の発展において、それを使う人が使いやすいようにルールを改造していくのは合理的なことだと考えています。例えば、ある熟語が本来の意味と全く異なる使い方で使われていたとき、それが一般的にそう認識されているのであれば意味として認めるべきだということです。

 例外として「ことわざ」や「慣用句」等の、教訓や特別な意味が込められた言葉については、その教訓自体を風化させないためにも本来の意味を徹底するべきだと思うのですが、まあそのあたりは突き詰めていくとこじれそうなのであまり触れません。こじれる要因の一つとして、「外国語から日本語に訳されたときに、意味合いが変わってしまったことわざ、慣用句」があげられます。『沈黙は金、雄弁は銀』はその最たる例でしょう。「無駄にしゃべるより、黙っている方が良い」ではなく、「よくしゃべることは重要だが、沈黙するべき場合やそれのもたらす効果を知っていることはもっと重要だ」という意味合いだったのですが、民族性の違いからか本来の意味だとなじめなかったのですね。面白いです。話がそれてしまいました。

 以上の考えに則って、僕は「ら抜き言葉」自体に問題があるとは言い切れないと考えています。むしろ、今後の流れに合わせて徐々に認めていく必要があると考えています。

 とはいえ、たとえ「ら抜き言葉」に問題が無い、認める必要があると認識していても、文章上においてはら抜き言葉を使ってほしくないと考えています。そこにこれといった理屈は無く、単に「気持ち悪いから」という感情論です。たとえるならば、今まで見慣れていた「緑茶」という文字が、いつの間にか「縁茶」と書かれるようになっていたような、ら抜き言葉を見るとそんな気分になるのです。僕はそれを「えんちゃ」と読むのに、周りの多数は「りょくちゃ」と読むのです。想像するだけで気持ち悪いです。たとえそれがどんなに合理的な理由を基にしていようとも、これまでの形式に慣れ親しんでしまった身としては、気持ち悪さがぬぐえないのです。うへえ、こういう時はとりあえず綾鷹でも飲んで気分を落ち着かせましょう。綾鷹美味しいですよね綾鷹

 話し言葉で「ら抜き言葉」を使う分には許容できます。それが言いやすい以上、僕の判断基準においてはきわめて合理的なのですから(ただし自分で言う分には、らを抜かずに言っています。まあ確かに言いづらいです)。

 うーんなんでしょう。結局ふわふわと浮いたまま大した結論も出せませんでした。このままだとおさまりが悪いので、後でら抜き言葉に関するあれこれを眺めて、そのうえで考え直してみようかと思います。日本語って難しいですね。難しいから面白いのでしょうか。とりあえずしばらくは 「YES 食べられる NO 食べれる」をスローガンにでも掲げていこうかと思います。

 それでは皆さん良い夜を。